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男はうむを云はせなかつた。
「いるかね。いたら、高間さんが御挨拶に見えたからと――」
と、彼女は半ば問ふやうに、まじまじと徳次の顔を眺めた。彼はいつの間にか戸口から少し家の中へ入りこんでいた。だが、その奇妙な遠慮深さのために片手で入口の柱をつかまへたまゝ、宛あたかもまだ家の中へはすつかり入り切つてはいませんや、と云つているやうな恰好をしていた。その時盛子は男が今一方の手で平つたい笊を抱へているのに気づいた。その中には笹の葉のやうなものがのせられ、下では魚の腹らしいものが光つて見えた。
その直造の耳には、次のやうな言葉が響いて来た。
「それあ、いかん。こんなに多くはいらんよ」
さう云ひすてて、大きな音を立てて下駄をひきずりながら立去つたのだ。
「かう云ふと、君は笑ふかもしれんが、自分の親だの子だのいふ者を診るのはじつに困るんだ。なんだかそはそはしてね」
私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗リフラクシオンを感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓らちのない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくのがたび重なるとともに、私は自分の恐怖があるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。
「いや、人目がなきあそれどころぢや済まんでせう」
「うん」
「君は昨日その九州から来た連中を赤山へ案内して行つたちふぢやないか」
「きさま!あれほど云つたぢやないか。何んだこの真似は!」
このどこの誰とも判らない相手を満更知らぬでもないらしい様子を見せながら、房一は手早く書きこむと、